昔からよく聞く言葉
努力
と
根性。
それって本当に必要な考え方なのでしょうか。
スポ根ものに付きものなのは
体の故障を押しても
辛い練習を繰り返しても
努力と根性で乗り越える。
目標に達成出来ないのは努力と根性が足りないから。
でもそれって本当でしょうか。
人は自分が好きな事に熱中したり
なりたい自分になるためにそれに対して打ち込む時、
それを努力や根性だとは感じないのではないかと私は思います。
その事に価値を感じない赤の他人から見た時にだけ
それが努力や根性に映るのではないのでしょうか。
例えば、
私がマレーシアに来たばかりの時
英語学校ELSへ7ヶ月間通った時期がありました。
今の日本の中学生よりも酷い英語力だった私が
今では日本人以外の友人を何人か作れるまでの
英語力を身につけました。
英語を通して色々な国の人と交流する。
その事に価値を見いだせない人からすれば
私は英語学習に於いて努力家で根性がある
と言う事になります。
けれど実際本人は
深夜まで寝る間を惜しんで勉強した事ですら
努力や根性を発揮したとは思っていません。
そこにあったのはただ
「なりたい自分になるためにとった行動」
だけです。
人間は本当になりたい自分
「夢」があれば
努力とか根性の気持ちは感じないのです。
これが体験的に分かっているのが西洋人だと思います。
彼等は褒める事を主として
日本人の様に駄目出しをしません。
兎に角良い所を見付けて褒めます。
そうすると自信満々の子供が育ちます。
私は海外に来てこの日本人的呪縛
日本人的洗脳から漸く少し解放されたと思います。
ジョホールバルに来てから私は
ゴルフとテニスとヨガを始めました。
算盤の選手として活躍していた現役時代は
指が震えるからと運動は御法度でした。
元々身体を動かす事が好きだった私は、
四半世紀を越えて漸く
お友達と運動をする楽しさを満喫しています。
けれど、中には運動が好きなんだけど古傷が・・・
と若い頃の無理なトレーニングや故障、事故等によって
運動が出来ない人が居ます。
已むを得ない事故を除き、
昔流行ったスパルタ式による故障は
本当に悲惨だと思います。
たった10〜20歳前後の数年で故障した場合
その子供の人生の中で
今後40〜50年の運動する楽しみを奪うのです。
中学時代、当時運動部だった友人から聞かされた話しも
コーチから殴る蹴るは当たり前でしたし、
水を飲むな!
と今では有り得ない事が当たり前の様に行われていました。
これは努力でも根性でもなく
全く誤った方向性だと思います。
長距離走等は過去のトラウマから
「巨人の☆」
は名作ではなくて
間違った方向性の努力と根性を植え付けたのではないかと思います。
私は本当に好きな事をやっているのであれば
毎日ハッピーで
苦しい顔をしないのだと思います。
これは運動に限って言える事だけではありません。